続きです。
熊本城がなかなか落ちないという事は、
すなわち西郷軍の苦戦を意味します。
それからほどなくして田原坂の防衛ラインを政府軍に破られ、
西郷軍は後退を余儀なくされ、戦死者は日増しに増していきました。
少年たちは西郷軍の死者を安置している寺の様子も見に行っており、
そこでの印象的な描写があります。
続々と増えていく西郷軍の死者達は、戸板に乗せられ、
寺に安置されていくのですが、
その中には16、17歳の少年兵も数多く含まれていました。
そういう遺体に一つ一つ名前をの札をつけ納棺していくのですが、
最初は恐る恐る遠巻きに見ていた少年達も次第にその手伝いをしていくようになります。
その際、ひとりの薩摩兵が涙をぬぐいながら、
それからほどなくして田原坂の防衛ラインを政府軍に破られ、
西郷軍は後退を余儀なくされ、戦死者は日増しに増していきました。
少年たちは西郷軍の死者を安置している寺の様子も見に行っており、
そこでの印象的な描写があります。
続々と増えていく西郷軍の死者達は、戸板に乗せられ、
寺に安置されていくのですが、
その中には16、17歳の少年兵も数多く含まれていました。
そういう遺体に一つ一つ名前をの札をつけ納棺していくのですが、
最初は恐る恐る遠巻きに見ていた少年達も次第にその手伝いをしていくようになります。
その際、ひとりの薩摩兵が涙をぬぐいながら、
少年達に投げかけてた言葉があります。
「ぼうや、おいどんも、そのうちこんな姿で戻ってくる。
その時も手伝っておくれ。」
ほどなくして本当にその薩摩兵が死体となって戸板で運ばれてきたのを目の当たりにし、
その時、戦というものの恐ろしさ、酷さというものを思い知ったと記しており、
この体験は、後の少年達の人生に大きな影響を与えることになります。
そして、少年達は、その寺で、もう一人の西郷軍の幹部と出会います。
熊本城攻略司令官の池上四郎です。
雨の日に、祇園山を訪ねて来た少年達を陣屋に入れて、
彼らの濡れた頭を手ぬぐいで拭いてくれた砲兵の飯塚さんとも、
一緒に魚取りをしたお兄さんの少年兵達とも、
少年達はそれから二度と会うことはありませんでした。
少年たちが接した西郷軍の人々は、皆、人懐っこい親しみの持てる人物ばかりで、
その人達が死んでいったりするのは、悲しくて切なくなります。
司馬作品には無い、生の人間の死の痛みがそこにはあります。
なぜこんないい人達が死ななければならなかったのか。
この人達の死を乗り越えてでも達成しなければならないものがあったのか。
平成の人間ならば、ひょっとしたら、
そうまでして国を富まして強くして近代化する必要はないんじゃないかと
思ってしまう人もいるでしょう。
しかし、明治の先人たちはそういう道を取らなかった。
国民一体となって西洋列強に対抗し、自分たちの自尊心と自律を維持する。
そのことに全精力を傾けたわけです。
今の日本人は、そのような恐怖を感じるような脅威がないから、ピンとこないかもしれません。
しかし、このような西洋列強への恐怖の心情は、
後のロシア皇太子傷害事件の、筆者の叙述からも相当なものであったと推察されます。
西郷軍が熊本から撤退して、熊本には復興の時期が訪れます。
しばらくして少年は、父を病で亡くしますが、
残った家族で団結して、明治の世を生き抜いていきます。
少年は軍人になることを志し、見事難関の士官学校に進学します。
そして、様々な学友と出会い、後に日清戦争や日露戦争に従軍し、
ロシア革命時、シベリアにわたり諜報活動を行ったりして活躍します。
彼は、その時々の場所で、少年時代、西南戦争で体験した出会いと別れに、
優るとも劣らぬ新たな出会いと別れを数多く経験しますが、
それについては、また書く機会があれば、いつかぜひ紹介したいと思います。
長じて、シベリア、満州で活躍した頃の石光正清の肖像。