らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「ゴッホの手紙」番外編 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ








少し前に「ゴッホの手紙」について記事を書きましたが、
そこで紹介した手紙は、紙面の都合上、
どうしてもゴッホの人生の根幹に関わるものに限定されてしまい、
その他の興味深いものが漏れてしまっていました。
漏れた手紙の中には、ゴッホの考え方、感じ方において、とてもユニークで面白いものが含まれています。

そこで今回は番外編として、それらの手紙を紹介しようと思います。









「・・いつも星を見つめていると、
地図の上の町や村を表示する黒点が夢を与えるように、簡単に夢見心地になってしまう。
どうしてそう考えてはいけないのだろう。
蒼穹の光点がなぜフランス地図の黒点以下なのだろう。
汽車に乗ってタラスコンやルアンに行くように、
われわれは星に行くのに死を選ぶのかもしれない。
生きているあいだに星の世界へ行けないのと、死んでしまったら汽車の乗れないのとは、
この推理のうち、たしかに本当のことだ。

要するにコレラや砂粒状結石、肺病や癌が、
汽船や乗合馬車や汽車が地上の交通機関であるように、
天上の交通機関だと考えられないこともない。

老衰で静かに死ぬのは歩いてゆく方だ。」



死といいますと、恐ろしいもの、忌むべきもの、できれば避けたいもの
という考え方が現在でも支配的といえます。

ゴッホの時代は、今ほど医療が進んでいませんでしたので、 
病気にかかればすぐ死ぬということも普通にあったことでしょう。
つまりは死は今よりもずっと 身近にあったのです。

しかし、この手紙からは、ゴッホの、死に対する恐怖みたいなものは感じ取れません。

病気で死ぬのは、天上の交通機関に乗って、星の世界に行くことであり、
老衰はゆっくり歩いて行くことである。という考え方はとてもユニークです。

つまりは、到着するスピードに差があるだけで、行き先は変わらない。
病気などをむやみに畏れたり、忌むべきものと考えるべきではない。
なぜなら結局行き先は同じなのだから。

死とは恐れるものではなく、受け入れるものなのだ。
というゴッホの死生観が表れているような気がします。

それにしても、天上の交通機関に乗って、星空を駆けるというのは、
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも通じるロマンティックで素敵な例えだと思います。










「君はヤン・フェルメールという名の画家を知っているかい。
彼はとても美しい妊娠しているオランダ婦人を描いている。
この不思議な画家のパレットは、レモン黄と、真珠色した灰色と、黒と白だ。」 






フェルメールは日本でも大変人気のある画家です。
フェルメールの魅力は何かと尋ねますと、
彼の絵には物語があると言います。
例えば、「真珠の耳飾りの少女」などは、
振り返った少女の視線の先に何があるのかということを想像すると、
無限に物語がふくらんでいくというような事を言います。

http://img10.shop-pro.jp/PA01047/075/product/7304870.jpg


なるほど、そうなのかとは思いますが、
自分的には、その説明は、実は、あまりピンと来ないところがあります。

しかし、ここで、ゴッホフェルメールの色について言及しています。

なるほど、色か。
フェルメールの物語ばかりに気を取られて、
色については、少々おろそかになっていたような気がします。
絵の最も本質的な部分はやはり色だと思います。
今度からは、フェルメールの色に着目して、
彼の作品を見ていきたいと思います。

ゴッホの芸術に対する問いかけというのは、
ハッとするような示唆に富んでいることが多々あるのです。






女流画家シュザンヌ・ヴァラドンの証言

「彼は重いカンバスを抱えてやってくると、
光線の具合の良さそうな片隅に立てかけ、誰かが注意を払ってくれるのを待っていた。
しかし、誰もそれを気にとめないでいると、
絵に向かい合って座り、会話には殆ど加わらず、みんなの視線をうかがい、
やがて疲れ切ってその最新作を抱えて立ち去った。
けれども次の週にはまたやって来て、同じパントマイムを繰り返した。」


ゴッホの手紙の内容ではありませんが、
興味深いものなので、ここで取り上げました。

ヴァラドンは前に記事でも取り上げました、
ユトリロの母であり、自らも芸術家である女性です。
http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/14118549.html
そのヴァラドンが若い頃に、ゴッホと出会っていたというのは、新鮮な驚きです。

証言を読みますと、ヴァラドンゴッホに対して、
異性としての意識のかけらも無かったんだなと、しみじみ思います。
当時のヴァラドンは芸術の中心パリで、
様々な芸術家達と交流する売れっ子のモデル。
また彼女自ら絵画を描くなど、その人生の勢いはまさに昇り調子の頃で、
オランダの田舎から出てきた画家志望のゴッホなど歯牙にもかけなかったことでしょう。

証言を読むと、芸術の華やかなパリのサロンで、
居場所のなかったゴッホの様子がよく伝わる文章です。

しかし、彼女がゴッホの絵の印象については言及したものはありません。
ヴァラドンも絵画に関しては、ひとかどの実力を持った芸術家です。
ゴッホ本人のではなく、絵についての感想をぜひ聞いてみたかったものです。







「僕は人の生涯は麦の生涯のような気がして仕方がない。
もし芽を出すために地に蒔かれなかったら、どうなるだろう、
粉にされてパンになってしまう。
幸運と不運の違いだ!
双方とも必要だし、有用でもあり、
死とか消滅も同じように関連があるし人生も無論だ。」


ゴッホの人生観をよく表した言葉だと思います。
ある麦は地にまかれ再び麦として実り再生しますが、
ある麦は粉に挽かれてしまい二度と再生することはない。

どちらになるかはゴッホは運だと言っています。

つまり運命というのは、人知が及ばないもの、
そこでゴッホは運を天に任せて、
自分の成し得ることを、全力で為して、人生を駆け抜けました。

その結果、ゴッホの命の麦は、 挽かれてパンになってしまったのか、
それとも再び命を得て実らせることができたのか。

皆さんはどうお感じになるでしょうか。