らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「檸檬」梶井基次郎

中学生の時隣の席に座っていた女の子がおしゃべりしているのをなんとはなしにぼんやり聞いていた。
「私今ね、梶井基次郎の「檸檬」ていうの読んでるんだけど結構好きなの。」
中学生の頃なんて女の子同士の話に割っていけるほどの度胸もない。
その話はそのまま記憶のカプセルに入って眠っていた。
しかし今回何年ぶりかに読んで眠っていたカプセルは再び開いた。


主人公のやるせない閉塞感。
以前楽しかった場所も今となっては重苦しいだけの居づらい場所でしかない。
できれば全てのしがらみを捨てて今いるところから遠いところに行きたいとすら思う。

それが一個の檸檬との出会いにより一種の清涼感を得てひとときの安息、幸福感を得る。
自分にとって重苦しいと思っていた場所にもひとつ行ってみようかという気持ちにすらなる。

行ってみると再び重苦しい閉塞感が襲ってくるが檸檬を置き去ることでそれを吹き飛ばす。

作者は病で様々な不安感、焦燥感、重圧感に苛まれているが、その心情は思春期の心情そのものでもある。
得体のしれない閉塞感から来る不安感や苛立ち。そのままじっとしているだけではそれら黒い感情に支配されて押し潰されてしまう。

しかし作者は一見ちっぽけな檸檬という果実に清涼感を感じ安息を得る。
思春期の心情も同じで、大人から見るとたわいないちっぽけなものでも思春期の焦燥を打ち破るものになりうる。
それを自分で探し大事に持っていなければいけない。
それは思春期に悩む人々にも知って欲しいが、彼らを取り巻く大人達にも知っておいて欲しい気がする。

しかしこの作品、今からほぼ百年前に書かれたにもかかわらずちっとも古さを感じない。
現代の作品の内容と言っても全く違和感がない。

まさに檸檬がごときみずみずしさを保っている。

数年前物語の舞台となった丸善が閉店になった際店にたくさんの檸檬が置かれていたというニュースを耳にしたが、檸檬という果実のもつ清涼感と作品のみずみずしさが人々の感性に響きいつまでも愛される理由になっているのだろうか。
それにしてもなかなか洒落たことをしたものだと思う。